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【コラム】

富樫鉄火のグル新
第93回 全日本吹奏楽連盟の歴史

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 全日本吹奏楽連盟の新しい理事長に、大阪府立淀川工科高校吹奏楽部の丸谷明夫先生が選ばれた。いまでも現役バリバリの人気指導者がトップに就いたわけで、ということは、「全国大会で、丸谷先生は、自分で自分を表彰するのだろうか」なんて、余計な心配をしている方もいるだろう。

 私自身は、この全日本吹奏楽連盟なる組織とは何の関係もないので、いろいろ言いたいこともあるのだが、それでも、これだけの巨大な組織で、コンクール、アンサンブル・コンテスト、マーチング・コンテストなどを、大きな事故もなく運営している手腕はたいしたものだと思う(これに対しても「現地の支部連盟に運営委託しているだけじゃないか」との声もあるが)。

 しかしとにかく、現時点では、この「全日本吹奏楽連盟」という組織の下で、日本の吹奏楽界のかなりの部分が動いていることは間違いないわけで、今回の丸谷理事長の誕生を機に、いったいどういう歴史をもった組織なのか、ざっと知っておくこともムダではないと思う。大急ぎでご紹介したい。

 吹奏楽のコンクールは、全国組織が出来上がる以前は、各地の地方連盟による極地的な催しが中心だった。そのさきがけは、1934(昭和九)年に、愛知・静岡・三重・岐阜の4県のアマチュア・バンドによって結成された「アマチュア・ブラスバンド東海連盟」ということになっているようだ。中心になったのは、名古屋の東邦商業学校(現・東邦高校)バンドの指導者、神納照美氏だった。ちなみに同校は、戦後再開されたコンクールの第1回目からかなり長いこと、毎年のように全国大会に進出しつづけた名門バンドである。

 翌1935(昭和10)年、この東海連盟が主催して、日本で初めての「吹奏楽競演会(コンクール)」が開催された。つまり、名古屋を中心とする東海地区は、吹奏楽コンクール発祥の地なのである。現在、この地域で「中部日本吹奏楽コンクール」が大きな催しになっているのは、この影響かもしれない。

 この動きに呼応して、全関東吹奏楽団連盟、全関西吹奏楽連盟などが結成され、各地で独自のコンクールが開催されるようになった。

 1937(昭和12)年ころから、全国組織を求める動きがおこり始め、1940(昭和15)年、「大日本吹奏楽連盟」が結成。この年が紀元2600年記念だったこともあって、第1回全日本吹奏楽競演会が大阪で開催された。ただしこの時点では、関東・東海・関西・九州の4地方連盟しかなく、ここからの参加のみだったので、正確には「全日本」の大会とはいい難かった。

 以後、第2回、第3回とつづけて開催され、その間、北海道、東北、中国などの地方連盟も結成され、ようやく名実ともに「全日本」となってきたのだが、戦火の激しさには勝てなかった。第4回が開催されるはずだった1943(昭和18)年には、アッツ島玉砕、学徒出陣、「撃ちてし止まむ」が標語となるなど、とてもじゃないが音楽などをやっている世相ではなくなり、とうとう中止となった。

 ちなみにこの戦前の3回のコンクールは、戦意高揚マーチや行進ラッパ曲が課題曲だったほか、行進審査(いわゆるパレード審査)まであった。審査の際は「楽器が汚い」「靴が汚れている」ことが減点対象になったという。

 1945(昭和20)年8月に終戦。国土は荒廃し、吹奏楽界も例に漏れず、多くの学校が戦災で楽器を失ったほか、学制改革(1947年)の混乱もあって、しばらくは吹奏楽どころではなかった。

 それでも1947(昭和22)年に、まず関東吹奏楽連盟が再結成されている。初代理事長は、作曲家で音楽評論家、のちにNHKラジオ番組「音楽の泉」の解説で有名になる堀内敬三氏(1937〜83)だった。

 学制改革が落ち着き始めると、新制中学校を中心に学校吹奏楽部の復活が始まり、各地に再び地方連盟ができ始めた。このように次々と「連盟」が結成された最大の理由は、学校の先生たちが、具体的な指導法を求めていたからのようだ。これに応えるために各地で講習会が開催されるのだが、それには団体単位で集中して開催したほうが早い。現にこの時期の指導者講習会は、たいへんな人気ぶりで、この催しが、そのまま地方連盟の結成につながっていくのである。

 1951(昭和26)年には、関東吹連が戦後第1回の個人コンクールを再開(いわゆる管楽器ソロ・コンクールで、これは戦前にも開催されていた)、関西吹連も戦後第1回の関西吹奏楽コンクールを開催した。

 やがて各地で地方連盟が再結成されると同時に、地方レベルのコンクールも盛んになり、1954(昭和29)年、全日本吹奏楽連盟が結成される。この時点でも、地方連盟はまだ北海道・関東・東海・九州の4連盟しかなかったが、1956(昭和31)年12月、ついに、戦後第1回目にあたる、第4回全日本吹奏楽コンクールが大阪で開催されるに至った。参加団体は、「高校」5団体、「職場」3団体、「一般・大学」2団体(当時は、「一般・大学」で一部門だった。わかれるのは1961年から)という、まことに小規模な催しだった(当時、中学生は団体旅行が規制されていたので、5団体が録音審査で参加、会場には来ていない。中学生の実演参加は翌年から)。

 ところが「小規模な催し」のわりに、会場となった大阪府体育館は満員盛況だった。よく、当時の資料に、この日の会場内の写真が載っているが、それを見ても、1階フロアから2階両脇席まで、ギッシリ聴衆で埋まっていることがわかる。まるで現在の普門館なみの人気である。参加団体こそ少なかったが、全日本吹奏楽コンクールは、最初からかなりの注目を浴びていたのだ。

 こうしてみると、全国大会の再開は、終戦から10年以上もの時間を要している。ところがその間、全国高等学校野球選手権大会(夏の高校野球)は、1941(昭和16)年に戦火で中止されたものの、戦後は早くも1946(昭和21)年には再開している(再開当初は「全国中等学校野球大会」)。全日本合唱コンクールも1948(昭和23)年開始である。NHK全国学校音楽コンクールも、戦後は1947(昭和22)年に全国大会を再開させている。

 要するに、戦争で中断した多くの全国大会は、戦後2〜3年のうちには再開しているのである。これらに比べると、吹奏楽コンクールのほうは、かなりの時間がかかっている。このことは、人間の身体と最小限の道具さえあればできる野球や合唱に比べ、吹奏楽は、高価かつ大型の楽器が揃わなければ形にならない、カネと手間を要することを如実にあらわしているように思える。

 このようにして全日本吹奏楽コンクールは再開し、いまに至っている。その後の変遷は略すが、全日本吹奏楽連盟は、発足当初から朝日新聞社の全面協力を得ながら運営されており、1973(昭和48)年に社団法人の認可を受け、今年「一般社団法人」に移行している。

 丸谷先生が、どのような運営手腕を発揮されるのか、ぜひとも応援しながら、見守っていきたい。

■上記は、吹奏楽連盟会報バックナンバーを主な参考資料とし、適宜、当時の朝日新聞を参照しました。

※次回は、6月10日(月)の週に更新します。

(2013.05.30)


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