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【コラム】

富樫鉄火のグル新
第82回 大阪市音楽団を「廃止」してはいけない理由

ツィッターほど短くもなく、ブログほど個人的でもない、
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 日本の吹奏楽の元祖は、幕末の薩摩藩に設置された「鼓笛隊」である。これが「薩摩藩軍楽隊」となり(指導していたのは、最初の《君が代》の作曲者で、イギリス陸軍軍楽隊長だったジョン・ウィリアム・フェントン)、明治維新後、同隊を吸収する形で「陸軍教導団軍楽隊」が設置された。いわゆる「陸軍軍楽隊」である。

 やがて軍備拡張にともない、各地に軍楽隊が増設される。その増設第一号が、明治13年設置の「第二軍楽隊」(のちの近衛師団軍楽隊)だった。第二号が、明治19年設置の「大阪鎮台軍楽隊」。これがのちの「第四師団軍楽隊」である。この時点で、東京に2隊、大阪に1隊の計3隊(計142人)の陸軍軍楽隊員がいた。まさに彼らこそ「日本吹奏楽の曙」なのである。

 このうち、大阪の「第四師団軍楽隊」は、本隊である教導団軍楽隊からの選抜隊員50名でスタートした。一般公演は中之島公園の野外音楽堂で行なわれ、たちまち大阪市民に親しまれる存在となった。

 当時、同隊の演奏を聴いての感想を記した文章がある。
「私はサキソフォンの独奏に心引かれた。それはその音色が非常に柔らかく優雅で、しかも人間の音色に似たところがあるからである。但し現代に於いて用いられているサキソフォンは優雅な音色をもっていないのは、どういう訳か。楽器が違うわけでもあるまいから、多分その奏し方が異なるところから、明治時代のサキソフォンのような優雅な味が出ないのではあるまいか」(田辺尚雄『明治音楽物語』青蛙房刊より)

 同書に記された当時の演奏曲目は、マーチはもちろん、邦楽曲の《越後獅子》《勧進帳》、端唄の《春雨》《カッポレ》、さらには当時流行していた明清楽(中国の明朝や清朝時代の音楽)を洋楽風にアレンジした《九連環》《算命曲》《茉莉花》などがあったという。

 彼らの存在がひときわクローズ・アップされたのが「シベリア出兵」である。大正7(1917)年のロシア革命により、ロシア帝政が崩壊、社会主義国家の誕生が確実となった。危機感を覚えた当時の連合国(日米英仏伊)は、ロシア革命軍に囚われたチェコ軍を救出するとの名目で出兵を開始する。典型的な干渉戦争である。

 このとき、陸軍軍楽隊にもロシアへの出動命令が下り、2隊の臨時軍楽隊が編成された。このうちの、第一臨時軍楽隊」の中心メンバーが、大阪の「第四師団軍楽隊」であった(「第二臨時軍楽隊」は名古屋の「第三師団軍楽隊」が中心)。

 彼らは、楽長・守谷範造に率いられ、同年8月、舞鶴から出港した。ハバロフスクやウラジオストックを中心に活動し、のちに楽長補・林亘が率いる交代要員と入れ替わりながら、大正11年10月に司令部が総引き上げを完了するまで現地にとどまり、演奏活動をつづけた。

 慣れない土地で、しかも戦時下とあって、彼らの演奏活動は過酷を極めた。途中、隊員の病死もあった。ゲリラに射殺される隊員まで出た。ロシア軍の反乱にも出会った。しかし彼らは、慰問、壮行会、歓迎会、パーティー、地元民のための演奏、パレードと、とにかく毎日、演奏をつづけた。

 ところが、彼らが大陸で命がけの演奏を繰り広げていたころ、世界は未曾有の経済恐慌に襲われていた。まさに、現在の不況と同じである。日本も軍備縮小をせざるをえなくなった。その結果、3つの軍楽隊の廃止が決まった。名古屋の「第三師団軍楽隊」、東京の「近衛師団軍楽隊」、そして、大阪の「第四師団軍楽隊」である。

 シベリア出兵中の「第四師団軍楽隊」は、大正11年7月、内地から届いた新聞で、自分たちの軍楽隊の「廃止」を知る。もう日本へ帰っても仕事はないのだ。彼らは最後まで任務をまっとうしながらも、意気消沈のまま帰国した。

 ところが、この廃止決定を、大阪市民やマスコミは、容易に受け入れなかった。彼らが最後までシベリアの地でがんばっていることを忘れていなかったのだ。それほど同隊は、大阪の町に定着していたのである。そこで、師団長や楽長補・林を中心に、大阪市に対して軍楽隊をそのまま引き取ってくれるよう、交渉を開始した。

 その結果、楽器も演奏者もそのままで、運営費は大阪市が補助を出すことで、吹奏楽団「大阪市音楽隊」となって再スタートする。隊長は林亘。当初の運営幹部は大阪市と陸軍の双方からなる半官半軍¢g織だったが、昭和9年に大阪市の完全直営となり、隊員はすべて大阪市職員となった。そして戦後の昭和21年、「大阪市音楽団」となり、現在に至るのである。もちろんいまでも、日本で唯一の、地方自治体が直営するプロ・バンドである。

 軍楽隊時代からの中心メンバーで初代隊長をつとめた林亘[1870〜1950]は、クラリネットの名手としても知られていた。留学先のイギリスで、クラリネット・ソロを披露して大喝采を浴びたこともあったという。市音のクラリネットに定評があるのは、その影響かもしれない。

 市音の存在が本格的にクローズ・アップされ始めたのは、定期演奏会を開催するようになってからだった(当初の名称は「特別演奏会」だった)。第1回は1960(昭和35)年4月、大阪の毎日ホールで開催された。指揮は第三代団長・辻井市太郎[1960〜86]。辻井は、戦前に旧制中学を卒業後、大阪市音楽隊時代に入団してクラリネットやサクソフォン奏者として活躍、戦後の混乱期に弱体化していた同団を日本有数のバンドに育て上げた中興の祖≠ナある。

 このときの演奏曲目は、以下のとおり。
1.カンツォーナ(ピーター・メニン作曲) ※日本初演
2.交響詩《献身》(カール・フランカイザー作曲)
3.吹奏楽のための交響曲変ロ調(パウル・ヒンデミット作曲) ※日本初演
4.ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲(ルドルフ・シュミット作曲) ※真木利一(ピアノ)、日本初演
5.組曲《キージェ大尉》(セルゲイ・プロコフィエフ作曲/辻井市太郎編曲)

 昭和30年代に、このようなプログラムが実現していたことに、驚愕せざるをえない。この3年後に第1回定期演奏会をスタートさせる東京佼成ウインドオーケストラの曲目がクラシックの泰西名曲£心だったのに比べると、当初から吹奏楽オリジナルを中心にしていたことがわかる。

 以後も市音は、徹底的にオリジナルの発掘につとめた。同年11月の第2回定期演奏会では、シェーンベルク《主題と変奏》、モートン・グールド《ジェリコ》などを日本初演しているし、その後も、グレインジャー《リンカンシャーの花束》、チャンス《呪文と踊り》といった名曲を次々に紹介し、日本吹奏楽界のレパートリーとして定着させている。

 1985年に木村吉宏が団長に就任してからは、さらに活動の幅が広がり、1995年には、オランダの指揮者ハインツ・フリーセン[1934〜]を首席指揮者に迎え、国際色豊かなウインド・オーケストラとなった。アルフレッド・リードやフレデリック・フェネルといった人気指揮者、関西楽壇の重鎮・朝比奈隆、ヤン・ヴァンデルローストのような人気作曲家も客演指揮に迎えている。そのほか、多くのレコーディングや、地元での活動、コンクール課題曲参考演奏などにおける活躍ぶりについては、本欄読者の方には、もう説明の要はないだろう。

 さて、この4月5日、橋下徹・大阪市長が率いる「大阪市改革プロジェクトチーム」がまとめた「事業カット試案」が発表された。それによると、大阪市音楽団は「廃止」だそうである(年間の運営予算4億8000万円で、内、4億3000万円を、今まで市が支出していたという)。

 これについては賛否両論あるようで、当然ながら吹奏楽関係者は大反対で、ネットやツイッターで見かける声をまとめてみると、「市音の果たしてきた役割を考えるとあまりにひどい措置」「ふるさと納税で市音を支えよう」「ほかに無駄な財源をカットすれば市音を支えるくらい、どうってことないはず」

 これに対し、今回の試案を評価する声もけっこうあって「この不景気下、女房に無駄な化粧をさせるようなもの。そんな余裕はない」「大阪市民でもない者が、あれこれ言うな。そんなに廃止が嫌なら、財源をもってこい」「市音のメンバーは実力派だから、解散しても食うには困らない」……等々の意見を見かけた。

 私は、実現するかどうかは別として、とにかくこういう「試案」がまとまること自体は、当然だと思っている。私も本業はマスコミ業界の隅にいるサラリーマンなのだが、現今の不景気は、並大抵の状態ではないのである。本はブックオフで買うか図書館で借りる。音楽はYOUTUBEでタダで入手するか、せいぜい、曲単位でダウンロード購入するのでCDは買わない。コンサートはカネがかかるから行かない。楽譜は他団体から借りてコピーする。……これで、どこが「文化」なのかと言いたい。こんな状況で公立吹奏楽団を維持することがいかに大変かは、想像に難くない。「そんなに反対するなら、いままで市音のCDをどれだけ買ってきたのか」とさえ言いたくなってしまう。

 しかし、それでもなお、私は、市音の廃止に、声を大にして反対を唱えたい。理由は、「文化」とかそういうことではない。もう、私たち日本人は「歴史を断絶する」ことは、やめるべきだと思うからだ。

 本欄の前半で、長々と、市音の歴史を綴ってきた。これでおわかりだと思うが、大阪市音楽団は、明治時代の軍楽隊の歴史を、そのまま引き継いでいるのである、現在の「陸上自衛隊中央音楽隊」が、戦前の「陸軍戸山学校軍楽隊」の流れを引き継いでいると、いえなくもないのだが、やはり中音は、戦後に新たに発足した「警察予備隊」の音楽隊が原型である。これに対し、市音は、先述のとおり、明治時代の「陸軍第四師団軍楽隊」が、そのまま「大阪市音楽団」になったのである。

 いま、私たちの周囲に、「明治時代」の何かが、外見こそ違え、とにかく絶え間なく、そのままつながって続いているなんてものが、どれだけあるだろうか。

 だが日本人は、こういう「長く続いてきたもの」を、お上(かみ)から言われると、平気で断ち切る民族である。その典型が明治維新で、おおらかで明るくて健康的だった江戸文化を、一夜にして断ち切ってしまった。着物を捨て、日本髪を捨て、義太夫や長唄などの素晴らしい邦楽を捨て、美しい文語体を捨てた。かわりにズボンを履いて、髪を七三に分け、五線譜の洋楽を取り入れ、雑駁な口語体を使用するようになった。

 かくして、モーツァルトやワーグナーは詳しいのに、歌舞伎や文楽は観たことのない日本人が大量発生した。英語ペラペラなのに『源氏物語』も『平家物語』も読めない日本人が当たり前になった。いまになって「日本人の死因の大半はガン」だと騒ぐなと言いたい。江戸時代の常食だった玄米雑穀と野菜と魚を捨て、白米と肉食になってカレーとハンバーガーばかり食べるようになったのだから、ガンになって当たり前じゃないか。

 だから、江戸時代最後の年に生まれた「最後の江戸人」夏目漱石がノイローゼになったのは、胃弱とか神経衰弱が原因ではない。彼は「明治時代が嫌だった」のだ(『坊っちゃん』は、そんな漱石自身のパロディである。現に、最後は、明治の女・清(きよ)のもとへ逃げ込むではないか)。

 この変わり身の早さ、および、押し付けられて文句も言わずに受け入れる姿勢は、まことに驚くべきものだった。こんな日本人の性格を、いちはやく見抜いていたのが、アメリカだった。いったい、世界のどこに、親兄弟を殺した相手に笑顔で尾を振って擦り寄り、「ギブミー、チョコレート」なんて言う者がいるだろうか。広島に、長崎に、第五福竜丸に、三度も放射能の雨を浴びせられ、恐ろしい目にあっていながら、その加害国のいいなりになって、その上、平気であちこちに原発銀座を作る国が、ほかにあるだろうか。

 私が市音廃止のニュースを聞いて腹が立つのは、「文化削減」だとか「橋下独裁」だとか、そういうことが嫌なのではない。またもや日本人は、上から言われて、長く続いてきたものを平気で捨てるのか、それをやるとどうなるか、明治維新と放射能で、さんざん学んできたのではなかったのか、いったいいつになったら日本人は自分の頭と足で歩むことができるのか……そういったもろもろが一挙に思い出されて、あまりに情けなくて腹が立つのである。
(敬称略)

※本稿の一部は、第61・62回と重複します。

※軍楽隊の歴史に関しては『陸軍軍楽隊史』(山口常光編著/個人出版)および、当時の新聞類を、大阪市音楽団の歴史に関しては主として『大阪市音楽団創立80周年記念誌』(財団法人大阪市教育振興公社)を参考にさせていただきました。

(2012.04.06)


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