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【コラム】

富樫鉄火のグル新
第74回 第五福竜丸事件(上)

ツィッターほど短くもなく、ブログほど個人的でもない、
同じような話題をグルグルめぐるけど、基本は最新の話題。グル新。

(不定期で更新しています。バックナンバーは最下段「目次ページへ」からお入り下さい)

 福島第一原発事故のその後は、収束するどころか、周辺地域は「長期間住めない」ことが確実となった(8月20日、政府方針)。連日、悲観的なニュースばかりが流れるので、私たちはすっかりマヒしてしまい、「少しくらい放射能があって当たり前」と思っていないだろうか。「まあ、いますぐ健康に被害がないなら、今の時代、仕方ないんじゃないの」と。

 だが、「いますぐ被害がない」のは確かだが、「いますぐ」ではなく「ずっとあと」になって被害が生じるのが、放射線被害の怖さである。

 しかもいまでも、「観測される放射線量は、レントゲン検査や東京〜ニューヨーク間の航空機被曝より低い」なんて話でごまかす専門家がいるのも驚きだ。レントゲン検査や東京〜ニューヨーク往復を毎日毎日こなす人間が、いるだろうか。パイロットだって、フライトごとに余裕を与えられる。しかし福島第一原発周辺の住民は、もしかしたらこれから何年間も、毎日毎日、放射線を浴びるのだ。放射線被害は「毎時」や「一回」単位ではなく、「蓄積」で判断しなければならない。

 私は昭和30年〜40年代に幼少期を送ったが、あのころ「放射能」は、今以上に「当たり前の存在」だった。雨の日に傘をささずに外を歩いていると、親から「放射能の雨で毛が抜けるぞ」などといわれたものだ。私の父親は早くから若ハゲだったが、よく「放射能にやられたんだ」と冗談を飛ばしていた。
 最近も朝日新聞で紹介されていたが、昭和32年の漫画『サザエさん』(長谷川町子)では、波平と近所の人が、「まったく放射能の灰がふってくるようじゃ」なんて会話を交わしている。
 昭和37年の東映映画『ひばり・チエミの弥次喜多道中』では、江利チエミが「放射能の雨が降ったって行くんだ〜い!」と威勢のいいセリフを発している。
 ゴジラは水爆実験の放射能による突然変異生物だし(昭和29年)、モスラの故郷インファント島は核実験で被曝していた(昭和36年)。
 当時、放射能はそれほど「身近な存在」だったのである。

 いったい、そこまで放射能をポピュラーにしたきっかけは、何か。
 1954(昭和29)年の「第五福竜丸」被曝事件である。

 アメリカは、1946〜58年にかけて、太平洋ビキニ環礁付近で、67回もの核実験を行なった。そのうち、1954(昭和29)年3月1日の水爆実験「キャッスル作戦」は、広島型原爆を1000個爆発させたのと同等の、まことに巨大な核実験であった(海底に、直径2キロ、深さ70メートル以上の穴があいたという)。

(余談だが、この地名「ビキニ環礁」が、水着の「ビキニ」の語源である。あのセパレート水着も核実験も、どちらも「衝撃的破壊力」があるというわけだ)

 このとき、実験海域近辺では1000隻近くの漁船が操業中だったが、アメリカ側の危 険海域設定は甘く、放射線はずっと広い海域に広がっていった。

 この多くの漁船の中で、もっとも甚大な被害を被ったのが、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」である。水平線の彼方に巨大な火柱が上がったので、すぐに危険を察知して操業停止し、引き上げるのだが、降ってきた「白い灰」を大量に浴びてしまう。それは、甲板に雪のように積もるほどの量だったという。

 乗組員は次々と、火傷の症状を呈し始め、髪が抜け、歯茎から出血し始めた。母港の焼津に帰港したのが3月14日(彼らには「見てはいけないものを見た」との恐怖心があったので、SOSは発信しなかった)。

 帰港後、23人全員が即刻入院となったが、9月になって無線長・久保山愛吉さんが「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と遺言を残して亡くなっていった。久保山さんの遺骨と遺影を、幼い子供たちが抱いて故郷へ帰る姿は、日本中の涙を誘った。同時に、放射線の恐怖に、世間はあらためて震え上がった。日本は、広島、長崎に次いで、アメリカによる三度目の被爆(被曝)にさらされたのだ。

 このほかにも多くの漁船が被曝した。マグロを含む太平洋でとれた魚は、一切、売れなくなり、水産業界に多大の被害が生じた。多量の放射線が、風に乗り雨に含まれ、太平洋一体、そして日本列島に振り注いだ。

 アメリカ側は「第五福竜丸はスパイ漁船である」「日本の医師団の治療法は誤っている」とのらりくらりの対応を続け、被害者1人あたり200万円前後の見舞金ですべては片づけられた。

 この事故は、長いこと、日本人の記憶に、強烈に焼きつくことになった。「雨に濡れると髪が抜ける」との冗談も、『サザエさん』も、江利チエミも、ゴジラもモスラも、すべては「第五福竜丸」がきっかけなのである。

(特に映画『ゴジラ』は、「第五福竜丸」事件と同じ昭和29年に公開されている。第五福竜丸事件が3月1日、『ゴジラ』公開が11月3日である)

 だがどうも日本人は、熱しやすく冷めやすいというべきか、三度も放射線被害にあっていながら、それでも原発大国の道を歩んできた。その結果がどういうことになったかは、今回の福島第一原発事故を見れば一目瞭然、説明の要はないだろう。

 だが、その間、「冷めていない」人たちもいたのである。彼らは「第五福竜丸」のことを、忘れようとしなかった。
 その一人が映画監督・新藤兼人であり、一人がアメリカの画家ベン・シャーンであり、一人が日本の作曲家・福島弘和であった。

(つづく)

※敬称略

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)

(2011.08.23)

【関連CD】

■ブラバンええとこどり
〜邦人作曲家による自作自演集I〜 
『ラッキードラゴン〜第五福竜丸の記憶〜』

http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-2061/

■Japan's Best for 2010 大学・職場・一般編
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/dvd-9407/

 


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