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【コラム】

富樫鉄火のグル新
第38回 沢尻エリカ

ツィッターほど短くもなく、ブログほど個人的でもない、
同じような話題をグルグルめぐるけど、基本は最新の話題。グル新。



 沢尻エリカが復帰したが、報道管制を思わせる「6か条」を提示したことが話題になっている。

 和田アキ子は「長いこと芸能界にいるけれど、こんな話は聞いたことがない」と怒ったらしい。

 だが、さすがに「ゴッドねえちゃん」和田アキ子も、明治時代に、「取り消し屋の綾之助」と呼ばれたトップ・アイドルがいたことは、ご存じなかったようだ。

 明治中期の東京では、「娘義太夫」が空前の人気だった。文楽や歌舞伎の舞台上手で三味線を従えて語る「義太夫」を、女の子が寄席でやって、若者たちをシビレさせていたのである。

 中でも、11歳で大阪から出てきた「竹本綾之助」の人気は、狂気の沙汰としか思えないものだった。頭を、いまのICONIQ(アイコニック)ばりに超短髪にしていたのもどこかエロチックだった。特に慶應義塾の学生たちが熱狂し、1日中、あとをつけまわした。世間は彼らを「追っかけ連」と呼んだ。いま、空港やホテルに詰めかけている「追っかけ」は、すでに明治の時代から、言葉としてあったのである。

 新聞や雑誌も、面白がって、あることないことを書きたてた(当時のマスコミといえば、「新聞」「雑誌」しかなかった)。

 これに対し、綾之助側は、徹底的に抗議を繰り返し、報道管制を敷き、不愉快な記事が出るたびに、訂正を要求した。やがて彼女は「取り消し屋の綾之助」と呼ばれた。

 実は、彼女にそこまでさせていたのは、当初は、ステージママの養母「お勝さん」であった。この養母が死んでからは、婚約者で慶應出身の実業家・石井健太が、その役目を担った。要するに、沢尻エリカがいまやっているようなことは、明治時代、すでに綾之助がやっていたのである。

 ただ、沢尻エリカと綾之助でちがうのは、その人気の度合いである。

 綾之助に熱狂するあまり、失職する会社員が続出した。綾之助と一緒になれないならと切腹しかける若者もいた。半年で100通以上の恋文を送りつけるファンもいれば、ほんとうにノイローゼになって赤い布をぶらさげて、1日中あとをフラフラついてくるストーカーもいた。

 しかも綾之助は、単なる「取り消し屋」ではなかった。

 日露戦争が勃発すると、木戸銭(入場料)のかわりに、手ぬぐいを1人2本、もってきてもらう演芸会を開催し、兵士に送ったりしている。そのときは、なんと2日間で「2万本」の手ぬぐいが集まったという。

 ここまでの人気と度胸があってこそ、芸能人は報道管制をウンヌンできるというものだ。

 以上、女流作家・長谷川時雨が、大正7年に「婦人画報」に寄稿したエッセイ『竹本綾之助』からの受け売りでした。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)

(2010.03.19)


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