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吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!


第22回 コンクール課題曲と審査員の日々(1)

 僕は、いままでに全日本吹奏楽コンクールの課題曲を5回、書いています。

1972年(第20回) シンコペーテッド・マーチ≪明日に向かって≫(中学の部用)
1975年(第23回) ポップス・オーヴァチュア≪未来への展開≫(中学の部用B)
1976年(第24回) ポップス描写曲≪メインストリートで≫(全部門用B)
1978年(第26回) ポップス変奏曲≪かぞえうた≫(全部門用C)
1989年(第37回) ポップス・マーチ≪すてきな日々≫(全部門用D)

 今回は、これら課題曲にまつわる、コンクールのお話をしましょう。


■酒の席で「君が書けよ」

 コンクール課題曲は、1971年(第19回)までは、すべて、プロの作曲家への「委嘱作」か「既成曲」でした。
 たとえば1970年(第18回)の課題曲は、中学の部用が、ヘンデルのオラトリオ≪サムソン≫序曲。いわゆるクラシック名曲ですね。他部門用が、アルフレッド・リードの≪音楽祭のプレリュード≫。これも当時すでにアメリカで出版されていた曲です。
 確かこのリードの曲は、当時、いい課題曲が見つからなくて困っていたところ、アメリカ研修から帰ってきたばかりの秋さん(秋山紀夫氏)が、山ほど持ってきた楽譜の中にあったものから選ばれたと聞いたことがあります。

  翌1971年(第19回)は、中学の部用が、齋藤高順のマーチ≪輝く銀嶺≫、他部門用が奥村一のマーチ≪太陽の下に≫。≪輝く銀嶺≫は既成曲ですが、≪太陽の下に≫もそうだったんじゃないかな。
 このように、課題曲は、すでに出版されていた曲か、あるいは、プロの作曲家に委嘱した曲のどちらかでした。ちなみに、当時の課題曲は「中学の部用」と「他部門用」の2曲でした。いまと違って中学生だけが、やけに子供扱いされていたんだね。

 で、そろそろ新機軸の課題曲がほしい、ついては一般公募してはどうか、との話が出て、1971年に、初めて、翌72年度用の課題曲を一般公募したんです。

 僕は、その選考委員をやらされました。
 ちょうど、そのころ、初めての吹奏楽ポップス・アルバムを作って、すでに「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」の準備もしていたし(第18〜19回参照)、地方のアマチュア・バンドの指揮などもしていたので、お声がかかったんです。

 ところが、なかなかいい作品が来なくてねえ。何とか、他部門用には、≪シンフォニック・ファンファーレ≫(三沢栄一)という入選作が出たんだけど、中学の部用に、いい曲が来なかった。
 選考会を終えて、みんなで呑みに行き、「公募といっても、なかなかいい曲は来ないもんだなあ」なんてぼやいていたら、その席に春日学さんがいた。この人は、戦後の早い時期から職場バンドの指導者として活躍していた人で、特に郵政中央吹奏楽団は、1950年代末から60年代初めにかけて、この春日さんの指揮でコンクール全国大会に出るようになりました。当時はすでに第一線を退いて、連盟の役員などをやっていたと思う。

 その春日さんから、
 「じゃあ、君が書けよ」
 と、酔った勢いでサラリと言われた。
 「え? 僕が課題曲を書くの?」
 「そうだよ、公募でいい曲が来ないんだったら、プロが書くしかないだろ。実は一週間後に、警視庁の音楽隊による、課題曲の試演会を開かなきゃならないんだ。いまからあらためて追加公募なんてやってる時間もない。中学生用のマーチでいいから。岩井君、頼むよ、書いてくれ」
 と、こうですからね。


■1週間で書いた課題曲

 何度も述べているように、僕はジャズマン時代から東芝EMI専属になってからも、一週間で曲を書くなんて、日常茶飯事だった。ひどいときなんか、一晩に7曲もの譜面を書いたことさえある。だから一週間でマーチを書くこと自体は、どうってことなかったんだけど、しかし「コンクール課題曲」ですからねえ。どうしようかと思ったけれど、とにかく引き受けることにした。
 その結果生まれたのが、僕の最初の課題曲、シンコペーテッド・マーチ≪明日に向かって≫です。要するに、酒の席で決まって、ほかの仕事をやりながら、一週間で書き上げたわけです。

 どんなマーチにしようか、ちょっと悩んだけど、まあ、ジャズ・ポップス上がりの僕が書くんだから、昔ながらの実用マーチというよりは、モダンなコンサート・マーチにしたかった。そこで、シンコペーションを多用し、跳ねるような、浮き浮きしたムードを強調しました。中学生用とのことだったので、あまり音域を広くせず、高音も控えめにした。ただし、一応はコンクールの課題曲ですから、半音階のフレーズなどもちょっと加えて、それらしくした。
 これが、予想以上に好評でしてね。こういうタイプの課題曲は、いままでなかったから、とても喜ばれた。

 この1972年の中学の部・全国大会は、全部で10団体です。いま、全国大会って、何団体出られるんだっけ? え? 29団体? そうか、いまの半分以下で全国大会をやってたんだね。

 中学の部用の課題曲はこれ1曲ですから、その10団体すべてが演奏したわけですが、4団体が金賞を受賞しました。団体名を見たら、すごい顔ぶれですよ。兵庫・西宮市立今津中学 (得津武史・指揮)、沖縄・真和志中学 (屋比久勲・指揮)、 秋田市立山王中学 (木内博・指揮)、 東京・豊島区立第十中学(酒井正幸・指揮)。銀賞だったけど、島根・出雲市立第一中学(渡部修明・指揮)も出ています。

 まさに戦後の名門中学と名指導者がズラリと並んでいるでしょう。考えてみれば、コンクールがもっとも熱くて面白い時代でしたね。この年、沖縄の屋比久勲先生は、初めての全国大会です。沖縄がアメリカから日本に返還されてまだ2年目だったので、この真和志中学の全国大会進出は、とても新鮮というか、感動的でした。しかし、これ以降、その屋比久先生が、勤務先が異動になるたびに、その学校を全国大会に連れてくるようになるとは、夢にも思わなかった。

 なお、この年、もちろん僕は、吹奏楽以外の仕事もやっていました。東芝EMIの専属アレンジャーですからね。その中のひとつが、TV特撮ドラマ『宇宙猿人ゴリ』の主題歌のアレンジと指揮。1971年の正月から放映されたんだけど、「宇宙猿人ゴリ」ってのは地球を征服に来た悪役。それが主人公で番組タイトルになってるとはいかがなものか、という声が出て、やがて対するヒーロー「スペクトルマン」もタイトルに加えて『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』になり、最終的にはただの『スペクトルマン』になった。「ずいぶんタイトルが変わる番組だなあ」と思った、特に記憶に残っている仕事です。

 しかし……『宇宙猿人ゴリ』の主題歌を編曲・指揮する一方で、コンクール課題曲≪明日に向かって≫なんてのを書いていたんだから、妙な仕事だよねえ。

▲課題曲を作曲しながら、こんなのも編曲・指揮してました。

■≪高度な技術のための指標≫登場

 この1972年の≪明日に向かって≫は、完全なポップス曲ではなかったけれど、かなりポップスの香りが漂っていることが新鮮だったようで、このあたりから、課題曲は変わり始めます。

 翌1973年は2曲とも委嘱作で、中学の部用が、兼田敏≪吹奏楽のための寓話≫、他部門用が名取吾郎≪吹奏楽のためのアラベスク≫。どちらもシンフォニック系ですね。
 そして1974年が2曲とも公募入選作で、小林徹≪吹奏楽のためのシンフォニア≫と、河辺公一≪高度な技術のための指標≫。この年、部門の区別はありませんでした。

 というのは、1972年の≪明日に向かって≫が中学の部用にしてはシャレた曲だったせいか、高校生たちから「俺たちも中学生用の課題曲を演奏したい」との声が、続々と寄せられてたんだね。73年の≪寓話≫のときも、同じような声が上がっていた。そこで、74年は、実験的に部門の壁を取っ払ったんです。

 ちなみにカネビン(兼田敏氏)は、ずいぶん前から、課題曲を「中学の部用」と「他部門用」に分けることに反対していたね。初めて課題曲に「マーチ以外」の曲が登場したのは、1964年(第12回)の≪バンドのための楽章「若人の歌」≫ですが、この作曲がカネビン。で、彼は、この曲を「中学生でも演奏できるように」書いた。しかし、当時としてはあまりにモダンでシンフォニック的すぎたもんだから、連盟のほうで「他部門用」に指定してしまった。「せっかく中学生でも演奏できるように書いたのに、他部門用にされてしまった」と、よく文句を言ってましたよ。

 確かに、いまでは中学生と大人のレベルの差は、ほとんどなくなっている。カネビンは、そのことを早くも予見していたんじゃないかなあ。
 とにかく、そんな経緯があって、74年は、初めて部門の壁をなくして、初の本格的ポップス課題曲である≪高度な技術の指標≫を、中学生も大人も演奏したわけです。


■阪急百貨店は「違反」?

 ≪高度な技術〜≫を作曲した河辺公一は、すでにこの連載をお読みの方には、おなじみですよね。僕と一緒にアーニー・パイル劇場で吹いていたトロンボーン奏者です。あの曲は、まさに当時のアーニー・パイルの雰囲気そのもの。次々といろんなリズムの曲が繰り出してくる、一種のステージ・レヴュー音楽です。

 しかし、いま資料を見ると、この曲は「連盟委嘱作品」とはなっていない。ということは、これ、公募なんだろうね。河辺公一が、自ら応募したのかなあ。だとしたらえらいよねえ(笑)。僕なんか、とてもじゃないけれど、公募して入選する自信なんか、当時はまったくなかったもんねえ。

 この≪高度な技術〜≫、最近、ずいぶんリバイバルで人気再燃しているみたいだね。実はこの曲については、ちょっとした思い出があります。
 当時、僕はすでに各地でコンクール審査員をやっていました。
 この74年は、関西支部大会の審査員に呼ばれ、職場の部の審査をしていたら、阪急百貨店吹奏楽団が、この≪高度な技術〜≫を取り上げていた。ところが、前奏は確かに楽譜どおりなんだけど、そのあとを、本格的なスウィングで演奏したんだ。びっくり仰天。楽譜には、そんな指定、ないからね。ところが、これがなかなかいい味出している。もちろん指揮は、「関西のマーチ王」鈴木竹男さんですよ。だから完全な確信犯なんだね。

 僕は、審査用紙に最高点を付けたけど、ひとこと冗談半分のコメントも書いた――「だけど、これ、違反じゃないの?」って(笑)。だって、楽譜どおり演奏してないんだから。でもポップスはそれでいいんですよ。楽譜から離れて、楽しく演奏することも重要なんです……しかし……そのときは「コンサート」じゃなくて「コンクール」だからねえ。しかも課題曲なんだから、あまり楽譜から離れるのはいかがなものか……。
 でも阪急は、その演奏が評価されて、関西支部代表になり、全国大会でも見事に金賞を獲得しています。

 あと、この1974年で忘れられないのは、大阪府立淀川工業高校(現・工科高校)が、この曲で初めて関西支部代表になり、全国大会に来たことです。もちろんこのときから指揮は丸谷明夫さん。全国大会では残念ながら銀賞だったけど、淀工の栄光は、この曲からスタートしたわけです。
 ほかにも、審査員では、いくつか、忘れられない出来事があります。

【つづく】



 

【お知らせ】
第23回は5月29日(金)正午〜、掲載予定。
(毎月15日・30日=土日祝日の場合は、直前の平日=に掲載予定)
(BP編集部/富樫鉄火)

(C)岩井直溥・富樫鉄火/バンドパワー
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【収録曲】

編曲・作曲:岩井直溥(Naohiro Iwai) 【全曲】

1. シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」 【3:29】
   Syncopated March "Asuni-Mukatte"

2. ポップス・オーバーチュア「未来への展開」 【4:42】
   Pops Overture "Development toward the Future"

3. ポップス描写曲「メイン・ストリートで」 【5:01】 
   On Main Street

4. ポップス変奏曲「かぞえうた」 【5:09】 
   Pops Variation "Kazoeuta"

5. ポップ・コンサートマーチ「すてきな日々」 【4:24】 
   Pops March "Wonderful days"

6. Jump Up Kosei 21 【7:46】  

7. 詩曲「渚の詩」 【8:50】  

8. 響きかぎりなく 【7:02】 

9. あの水平線の彼方に 【11:38】

【ボーナストラック】

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