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吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!


第12回 アーニー・パイル劇場(1)


  いま、東京・日比谷に「東京宝塚劇場」がありますよね。2001年に全面改築されて近代的なビルになりましたが、それ以前は、洋風モダニズム建築の典型として、しゃれた雰囲気が多くのひとたちに愛されてきました。
  戦後の占領時代、ここは「アーニー・パイル劇場」と呼ばれていました。そしてぼくは、1949年(昭和24年)から4年間近く、この劇場のオーケストラに移り、トランペットを吹いてきました。
  今回は、資料を片手に、歴史の教科書みたいなお話になりますが、これを語っておかないと、その後のぼくの人生の説明がしにくいので、お許しください。


■「アーニー・パイル劇場」の誕生

 まず「東京宝塚劇場」について。
 「宝塚劇場」といえば、兵庫県宝塚市にある、宝塚歌劇団の本拠地として有名ですよね。宝塚歌劇団は、阪急電鉄の創始者・小林一三(1873〜1957)がつくりました。始発駅にデパート(阪急百貨店)をつくり、沿線に住宅地をつくり、終点に遊園地と温泉と歌劇をつくった。いわば、電車を中心とした大衆娯楽文化をつくりあげたひとです。
 この小林一三が1932年(昭和7年)に東京に進出し、日比谷周辺を一大娯楽街に改造しました。日比谷映画劇場(いまの日比谷シャンテ)、有楽座(いまのTOHOシネマズ)、日劇(いまのマリオン)、帝国劇場など、すべてこの小林一三が手がけたものです。
 その中で、兵庫の宝塚歌劇団が、東京公演の本拠地とするために建設されたのが「東京宝塚劇場」でした。
 オープンは1934年(昭和9年)。その2年前にオープンしていた、ニューヨークの「ラジオシティ・ミュージック・ホール」をモデルにしてつくられました(このホールは、いま見ても、昔のSF漫画に出てきそうな、モダンなスタイルの建物です)。向かいには帝国ホテルの新館があって、フランク・ロイド・ライトの設計で、これもとてもモダンな洋館だった。つまり、かつて日比谷一帯は、洋風のおしゃれな町だったんです。
 オープン当時は、東京を壊滅させた関東大震災の痛手が残っているころでしたから、「東京宝塚劇場」は、復興の象徴のように見られたものです。
 ここが、終戦後、GHQ(占領軍)に接収され、GHQ専用の慰安シアターになりました。すぐそば、皇居のお濠端にある第一生命ビルが、やはりGHQに接収されて連合軍総司令部となっていました。いわば戦後の日比谷は、GHQの中心地でもあったわけです。
 で、接収された「東京宝塚劇場」は、「アーニー・パイル劇場」と改称させられました。


■日本人立ち入り禁止

 この「アーニー・パイル」とはどういう意味かというと、沖縄で日本兵に銃撃されて亡くなった、米軍の従軍記者の名前なんです。
 アーニー・パイル(1900〜45)は、本名アーネスト・テイラー・パイル。亡くなる前年の1944年にはピューリッツァー賞を特派員報道部門で受賞している名物記者です。沖縄県伊江島での米軍と日本軍の戦闘を取材中、銃撃されて命を失った。いまでも伊江島には、彼の慰霊碑があって、毎年、慰霊祭が開催されているそうですが、そういう人物の名前を劇場に付けるとは、我々日本人にとっては、なんとも複雑な思いでしたねえ。だって「この劇場を見るたびに、お前たちが殺した新聞記者を思い出せ」といわれているようなもんでしょう。
 ここは完全にGHQのための専用慰安シアターでしたから、日本人は一切、入ることはできません。中で上演されるのは、歌や踊りのステージ・レヴューがほとんど。主要スタッフにアメリカ人もいたけれど、基本的に、出演ミュージシャンやダンサーは全部日本人。客席は全部アメリカ兵。さすがに物量を旨とするアメリカも、ミュージシャンやダンサーまでをも本国から連れてくる余裕はなかったんでしょうね。また、見方によっては、「お前ら日本人は、戦争中、アメリカに迷惑をかけたんだから、お詫びに我々を楽しませろ」といっているようにもとれました。しかしまあ、考えてみれば、日本人が演奏したり踊ったりしているのをアメリカ人が見て拍手を送ってるんですから、なんとも不思議な空間でした。
 最近、岩波書店から『占領期雑誌資料体系』という全集の刊行が始まって、その第1巻を立ち読みしていたら、この劇場のことを書いた雑誌記事がたくさん出ていました。この全集は、占領時代、GHQの検閲でDelete(削除)処分、つまりボツや発売禁止にされた雑誌記事を集めたものなんですが、そこにアーニー・パイル劇場の記事がたくさんあるということは、それだけ厳しい「日本人立ち入り禁止」施設だった証拠でしょうね。そこに毎日出入りしていたぼくなどには、それほどおっかないところだとは、とても思えなかったけれど……。


■振付師・伊藤道郎

 ぼくはそこのオーケストラでトランペットを吹いていたわけですが、基本的にアーニー・パイル劇場のエンタテインメントをつくったのは、2人の日本人です。
 まず、全体の構成・演出を担当した、振付家の伊藤道郎(1893〜1961)。俳優で歌手のジェリー伊藤(1927〜2007)のお父さんです。また、劇団「俳優座」を設立した演出家・千田是也は、彼の弟です。
 伊藤道郎は、戦前に欧米で活躍した名ダンサーでした。BP読者だったら、ホルストに≪日本組曲≫という曲があるのをご存知でしょう。あれはもともとバレエ音楽なんですが、これをホルストに委嘱したのが、伊藤道郎です。あの中に出てくる日本のわらべ歌などのメロディは、伊藤道郎がホルストに教えたものなんです。彼自身がバレエ初演を演じています。その後はアメリカに渡って、本場ブロードウェイで振付けや演出を担当していました。
 そんな本場仕込みの人物が仕切っていただけに、アーニー・パイル劇場の出し物は、本国以上のレベルだと、たいへんな評判をとりました。確かに、あんなステージ・レヴュー、ぼくも観たのは初めてです。何十人もの女性ダンサーが横一列に並んで披露するラインダンスなんて、すごい迫力でした。しかも、次から次へと、休むまもなく、いろんなタイプの踊りや音楽がメドレーのようにつながっていく。
 後年、ぼくのポップス系吹奏楽曲に、次々と曲想が変わっていく構成が多い理由は、このときのステージ・レヴューの記憶が強烈だったからだと思います。逆に、いまの若い方々は、ぼくの曲を聴いて「アーニー・パイル劇場って、こういうムードだったんだなあ」と想像していただいてもいいでしょう。
 しかし、これを通常の日本人が観ることはできない。だから、先に述べたように、雑誌などが必死になって、劇場の中がどうなっているのかを記事にする。そして、発売禁止になる、その繰り返しだったわけです。
 もう1人は、オーケストラ担当の紙恭輔さん(かみ・きょうすけ1902〜81)です。
 日本のジャズやポップスの歴史を語る上で欠かせない、大音楽家です。

▲紙恭輔の指揮で演奏する岩井(後方、右側のトランペッター)
▲NHKのスタジオで指揮する紙恭輔。手に持った特大の指揮棒に注目!

■音楽監督・紙恭輔さん

 紙さんは広島の生まれです。名門・旧制第五高等学校(いまの熊本大学)を出て、東京帝国大学(いまの東大)法学部に進んだ超エリートです。
 ところが、子供のころから映画が好きで、映画館にばかり出入りしていた。当時の映画はまだ無声映画です。弁士がナレーションをつとめ、少し大きな映画館になると、楽団がいて、ナマ演奏をつけていた。紙さんは、映画館に通ううちに、この楽団のほうに興味をもって、いつしか楽団に入り込んでしまい、見よう見まねで弦バスを弾き始める。明治末期から大正にかけての話です。
 東大在学中には、すでに新交響楽団(のちのNHK交響楽団)でコントラバスを弾いていたそうです。ところが紙さんのほんとうの興味は、クラシックよりもジャズのほうだったんですね。しかし当時はまだ、日本では、ナマでジャズを本格的に演奏できるようなミュージシャンは少なかった。そこで紙さんは、学生たちを集めてジャズ・バンドを結成する。弦バスだけでなく、サックスでもなんでもこなしたらしい。作曲や編曲も。
 1925年(大正14年)に、NHKがラジオの本放送を開始することになって、ジャズも流そうということになった。そこで新交響楽団に相談したところ、紙さんを中心に、ジャズらしきものを演奏できるメンバーが何人かいることがわかった。そこで急きょ、NHKに呼び出され、スタジオでジャズを演奏した。いわば、日本で初めてのメジャーなジャズ・バンドの誕生です。
 このとき紙さんは、楽器によるインストゥルメンタル演奏だけでなく、ヴォーカルを入れた。これは、当時の日本では画期的なことでした。このとき起用された歌手の1人が、日本の流行歌手の草分けともいえる、二村定一(ふたむら・ていいち1900〜48)です。浅草オペラの出身で、レコード歌手第1号とも呼ばれています。最近亡くなったフランク永井が1961年に歌ってレコード大賞を受賞した≪君恋し≫は、実は、この二村定一が1928年(昭和3年)にレコード化して大ヒットしたもののリバイバルなんですよ。
 この二村定一を紙さんが起用し、NHKラジオで歌わせ、さらにレコードとなって大ヒットしたのが≪青空≫≪アラビアの唄≫などの外国曲でした。これもまたレコードとなって大ヒット。二村=紙コンビは、日本で最初の、レコード・ジャズ・ミュージシャンとなるのです。紙さんはコロムビアの専属アーティストとなって、ほかにもたくさんのジャズ・レコードをヒットさせました。アメリカにもジャズ留学して、「シンフォニック・ジャズ」というジャンルがあることを知りました。このときに仕入れてきて日本に紹介したのがガーシュウィンの≪ラプソディ・イン・ブルー≫です。 
 紙さんは、この「シンフォニック・ジャズ」を「東京放送管弦楽団」(略称「東管」)で実践していました。「東管」とは、昭和初期、新交響楽団(のちのN響)で待遇改善を訴えた団員がストライキを起こして解雇され、新たに結成した、いわば「N響のポップス・オーケストラ」です。
 紙さんの理想は、アメリカのポール・ホワイトマン楽団でした。ポール・ホワイトマンとはガーシュウィンと組んでいたバンド・リーダーで、「シンフォニック・ジャズ」の元祖のようなひとです。紙さんは、いつも特大の指揮棒を振り回していましたが、これも、ポール・ホワイトマンの影響です。1945年のアメリカ映画『アメリカ交響楽』は、ガーシュウィンの伝記映画ですが、ここにポール・ホワイトマン本人が出演して≪ラプソディ・イン・ブルー≫を初演する場面が再現されています。これを観ると、彼がいかに巨大な「棒」を振り回して指揮しているかがわかります。紙さんも、これを実践していました。ほんとうに太くて長い「棒」でしたね(ちなみにこの映画は、いま、500円の廉価盤DVDで気軽に観られるので、BP読者にぜひお薦めします。ガーシュウィンが37歳で若死にして、わずか8年かそこらで作られた映画なので、実際にガーシュウィンとかかわっていたアーティスト本人が続々登場し、劇映画とは思えない、ほとんどドキュメンタリーのような迫力です)。
 前置きが長くなりましたが、その紙さんが、アーニー・パイル・オーケストラの音楽監督として招かれたのです。
 ぼくは、アーニー・パイル劇場で紙さんに出会い、ジャズのアレンジや演奏法を、さらに本格的に身につけることになるのです。


【つづく】 

※第13回は11月28日(金)正午〜、掲載予定。
(毎月15日・30日=土日祝日の場合は、直前の平日=に掲載予定)

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2. ポップス・オーバーチュア「未来への展開」 【4:42】
   Pops Overture "Development toward the Future"

3. ポップス描写曲「メイン・ストリートで」 【5:01】 
   On Main Street

4. ポップス変奏曲「かぞえうた」 【5:09】 
   Pops Variation "Kazoeuta"

5. ポップ・コンサートマーチ「すてきな日々」 【4:24】 
   Pops March "Wonderful days"

6. Jump Up Kosei 21 【7:46】  

7. 詩曲「渚の詩」 【8:50】  

8. 響きかぎりなく 【7:02】 

9. あの水平線の彼方に 【11:38】

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(2008.11.14)>>


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