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吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!


第11回 ニュー・フェローズからビー・バップ・エースへ

 

 銀座のダンスホールで、ニュー・フェローズなるバンドとして演奏していたぼくたちですが、次第に客のアメリカ軍将校たちに評判となり、あちこちのキャンプや将校クラブから「こっちにも来てほしい」とお誘いを受けるようになりました。
  すでに編成も「4・4・5・4」と、かなり大きなビッグバンドになっていたので、この機会に「ニュー・フェローズ」を発展解消させ、「ビー・バップ・エース」と改称して、活動の場を、ダンスホール以外の場へ広げることにしました。昭和22〜23年のころです。


■初めて見た「缶ビール」

 ビー・バップ・エースになってから、いったい、どれほどの米軍キャンプや将校クラブをまわったことか……。
 いま思い出すだけでも、千駄ヶ谷の将校クラブ、市ヶ谷の占領軍司令部、キャンプ座間、キャンプ横田、横浜のゼブラ・クラブ……きりがない。
 クラブには、出入りできる兵士の階級に応じて何種類かあった。いちばん上が「将校クラブ」、いわゆる「オフィサー・クラブ」。次が「サージェント・クラブ」。ここは「軍曹」クラスの店。いちばん下がいわゆる「GIクラブ」。ここは一般兵士の店。
 どこも飲み食いができると同時に、ダンスもできるような店だった。
 このころの思い出は、とにかくクラブでの食べ物が豪勢だったこと。
 「缶ビール」なんて、初めて見た。それまでビールは「瓶」でしか見たことなかったから、缶詰のビールがあると知って驚いた。肉でもなんでも、とにかく缶詰であるのにも驚いた。
 将校クラブでは、ステーキなんて、昼間から当たり前のように食べている。しかも彼らは、真ん中の脂身のない部分だけ食べて、周りを残したまま捨てるんだ。あれにも驚いたねえ。あんな贅沢な食べ方があるなんて、夢にも思わなかった。
 このとき初めて、こんな国と戦争やったって、勝てるわけないと、本心から思った。
 アメリカって国は、最前線でも占領でも、まず「食糧」と「弾丸」を、人間よりも先に大量に送り込むんだね。そうやって「兵糧」を確実にしておいてから、兵隊がやってきて、腹いっぱいメシを食い、あふれるほどのタマを銃に詰め込んで、それから戦争を始めるんだ。昔から「腹が減っては戦はできぬ」といったもんだけど、まさにそのとおり。
 だけど日本は、まったく逆。とにかく兵隊を送り込んでおいて、「あとは自分たちで何とかしろ」だったんだから。後方支援がなくて玉砕したり全滅した部隊が、戦地でどれほどあったことか。餓死した部隊だって、山ほどあった。食べ物はない、弾丸もない、それでどうやって戦えというのか。
 日本軍が、コメを食えればいいほうで、ほとんどはカンパンのような腹にたまらないものばかり食べさせられていたのに対して、アメリカ軍は、どこへ行っても、チョコレートとパンと肉の缶詰があったんだからね。
 各地のクラブに出入りするようになって、その実態を見せつけられて驚きの連続だった。しかも、それらのおこぼれに与かれるんだから、まったくありがたい話だった。サンドイッチなんかも、うまかったなあ……。
 ところが、当のアメリカ人たちは、日本のことをどう思っていたかというと、これが面白くてね。クラブで知り合ったGIの中には「日本はスゴイ国だ。なぜこんな国が、アメリカに負けたんだ」なんて、本気で言っているやつもいた。特に電車にはビックリしていたね。ホームで、電車が入ってくると興奮しちゃって、一緒に走って競争してるんだ。おそらく、電車なんて見たこともない、アメリカの田舎から来たんだろうね。アメリカって国は広いんだなあ、人間もピンからキリまで、いろいろいるんだなあ、とつくづく思ったね。


■GHQのオーディション

 そんな毎日を過ごしながら、昼間は藝大へ通っていた。同級の團伊玖磨は、在学中に陸軍戸山学校の軍楽隊に入ってたから(打楽器担当だったはず)、その分を差し引かれて短縮で卒業していた。
 まあ、何とか卒業はできましたよ。成績順位なんか、ほとんど最下位だったんじゃないかなあ。なにしろ授業にはまともに出ていないし、ピアノも満足に弾けなかったからね。
 そもそも当時のぼくは、軍隊時代の訓練やら何やらで、手がガチガチに硬くなってたから、ホルンやトランペットはできても、ピアノはとても無理だった。タバコの火種を押しつけたって何も感じないくらい、掌も硬くなってたしね。
 だからぼくの意識の中では、終戦後、学校に戻ったものの、学生のままジャズの世界に入ってから、いつの間にかプロになっちゃったような感じだね。学校を卒業して、仕事先を探して……なんて記憶はまったくない。
 こう綴ると、まるで素人集団が、少しばかり楽器が吹けるからって、勝手にプロを名乗っていたように思えるだろうね。まあ、そういわれてしまえばそれまでなんだけど、一応、ぼくたちジャズバンドも、勝手に演奏活動ができたわけじゃなくて、一応、日本政府とGHQ(占領軍)の認可のもとで演奏してたんですよ。
 というのは、ニュー・フェローズのころは、まだその審査システムがなかったので、それこそ勝手にやっていたようなもんだけど、ビー・バップ・エースのころになると、そうはいなかなくなってね。日本政府とGHQが合同でつくっている審査会みたいな組織があって、年に2回、そこのオーディションを受けて、「合格」しないと、米軍クラブとかでは演奏できなくなった。それどころか、いまの吹奏楽コンクールみたいに、審査結果に応じてランク付けされた。
 ランクの種類は、年代に応じて変わったみたいだけど、ビー・バップ・エースのころは、「SA(スペシャルA)」「A」「B」「C」「D」「E」の6種類あった。どのランクをもらえるかで、ギャラが変わる。いちばん上の「SA」と、最下位の「E」とでは、5倍くらいの開きがあったね。
 で、ビー・バップ・エースは、いつも「A」。のちにアーニー・パイル・オーケストラに移ってからは、いつも「SA」でした。
 オーディションは、港区の勤労会館、あるいは、いまの代々木体育館のプールの横にあった建物で行われた。審査員の中には、音楽の専門家もいたみたいだけど、まあ、ほとんどは音楽なんかわからないお役人みたいだった。ただ、あとでわかったんだけど、その中に、アーニー・パイル・オーケストラの指揮者だった紙恭輔さんがいたんだ。これについては、またあとで詳しく綴ることになります。

▲米軍キャンプやクラブを回っていたころ(後方右から2人目が岩井)
▲のちに大劇場に移ってからは、トランペット・ソロも!

■東京駅丸の内口には……

 ギャラは、いまの日本交通公社の本社のところが、その種の事務所になっていて、そこへもらいに行っていた。行くと、やたら英語のうまい日本人が職員でいて、すべてのバンドに支払うギャラ関係を仕切っていた。彼らは、英語ができるのをいいことに、戦後、うまいことGHQの中に入り込んで仕事にありついた連中だったんだね。
 オーディションのほかに、バンドの人数規定も審査対象だった。つまり、ある程度のレベルの演奏をするには、それなりの人数がいなければならない、その人数がちゃんと揃っているかどうかをチェックされる。
 もちろん、オーディションの日は、あちこちから人数をかき集めて頭数だけは揃えていたけど、何しろジャズマンなんていい加減な連中が多いから、すぐにいなくなったり、別のバンドに移ったりして、突然、人数が揃わなくなるなんてことも日常茶飯事だった。
 キャンプやクラブへ行くと、規定の書類があって、そこへ支配人にスタンプを押してもらう。ところが、オーディションに通った際の人数がいないと、スタンプを押してくれない。時折、見逃してくれる支配人もいたけど、とにかくちゃんとスタンプが押されてないと、あとでギャラがもらえないからね。それだけに、毎日、人数を揃えることで必死だった。
 それでも人数が足りなくなったらどうするかというと、朝から、東京駅の丸の内口に行くんだ。ここは、仕事にあふれたミュージシャンたちの溜り場だった。大きな楽器を駅の荷物預け所に託したやつらが、とにかくゾロゾロいた。まあ、そのうちわかってくるんだけど、このころ、東京駅丸の内口にたむろしていた連中は、プロはプロでも、音大で少し楽器にさわっていた、という程度の連中がほとんどだったね。
 そこへ行って大声で「ラッパ2人!」とか、「サックス1人!」とか叫ぶと、ワッと集まってくるんだ。「じゃ、お前とお前」って、テキトウに指名して、連れて行き、その日だけのトラ(エキストラ)に入ってもらっていた。だから、とりあえず頭数だけ揃えようと思ったら、たいして苦労することなく、毎度、東京駅丸の内口へ行って、駆り集めていた。
 それでも、間に合わなかったり、本番直前でいなくなったりするやつもいる。そういうときはもう、誰でもいいから、そのへんにいる知り合いを引っ張ってきて、「とにかくこのラッパを口にあてて、一緒に座ってろ」なんてやっていた。
 そんないい加減な人集めでバンドを維持させていたから、楽譜がなくなるなんてしょっちゅうだった。トラが持ったままいなくなっちゃうこともあったし。たとえば、トランペットが4番まである曲なのに、3番の譜面だけなくなってるとか。
 そうなると、必ず、ぼくのところにお鉢がまわってくる。「おい岩井、ラッパ3番の譜面、急いでつくってくれ」てな調子。フルスコアなんてない。せいぜい、主旋律とコードだけを書いた、いまでいうコンデンス・スコアがあればいいほう。仕方ないから、ほかのパート譜を見て想像で仕上げたり、上海時代みたいにSPレコードを聴いて耳コピーで書いていた。これがまた、あとになってみれば、アレンジの訓練になっていたんだね。


■そして「伝説の劇場」へ……

 やがて、やたらと忙しくなってきた。アメリカ人はとにかくタフで、クラブは朝まで徹夜で営業しているなんてザラ。だから、仕事は一晩中、ある。
 どこかのクラブやキャンプで演奏し、時間になると、もう迎えのトラックが来ていて、その荷台に詰め込まれ、次のキャンプへ連れて行かれていた。
 トラックは、ものすごいスピードで飛ばして行く。床に腰を下ろすと、お尻が痛くなるので、中腰で構えていた。到着すると、走ってクラブへなだれ込み、すぐに演奏開始。そして、朝まで……。
 一年中、そんな暮らしだった。よく身体がもったと思う。若かったせいもあるし、前回綴ったように、ものすごいギャラをもらっていたせいもある。それと、前述のように、食べ物だけは最高級のものがもらえたしね。
 やがて、ぼくはほかの数人の仲間とともに、大劇場の楽団に移籍することになります。
それが、伝説の劇場「アーニー・パイル」でした。


【つづく】 

※第10回は11月14日(水)正午〜、掲載予定。
(毎月15日・30日=土日祝日の場合は、直前の平日=に掲載予定)

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5. ポップ・コンサートマーチ「すてきな日々」 【4:24】 
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6. Jump Up Kosei 21 【7:46】  

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8. 響きかぎりなく 【7:02】 

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