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吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!


第8回 芸大入学

 

 1年間の浪人は許されたけど、2年目となると、さすがにあとがない。もし、今度も医学系の学校を受けてダメだったら、もう兵隊になるしかない。
  ところが、姉が、滑り止めに、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に、願書を出しておいてくれた。浪人中も、暇を見つけては、上海の母校へ行ってブラス・バンド部の指導をしていたから、音楽学校だったら、なんとかなると思ったんでしょうね。
  これが、僕の運命を決めることになったわけです。


■「ホルンだったら採るが」

 しかし、いくら「音楽」をやっているといったって、僕がやっていたのは、即席編成のブラス・バンドでトランペットを吹いたり、耳コピーで編曲をしたり、すべてが無手勝流だった。正式な音楽教育なんて、受けたこともない。せいぜい、海軍軍楽隊で教わった程度。
  それが、芸大の器楽科を受けようってんですから、昔の話とはいえ、ずいぶん無茶な話です。
  まず、僕はピアノが弾けない。器楽科はトランペットで受験するわけだけど、一応、最低限のピアノの試験もある。そこで、姉に10日でソナチネを教わりました。ホントに「10日」。いいかげんなもんだねえ。
  で、たまたま遠い親戚に、渡邊暁雄さんがいたんで、あいさつに行った記憶があります。渡邊さんは芸大を卒業後、ヴァイオリン奏者として活躍していたんだけど、あのころは、もう指揮もやってたんじゃなかったかな。
  実技試験では、もちろん、トランペットを吹きました。16小節のソルフェージュを吹かされた。
  このとき、僕も含めてトランペットで受験したのが3人いた。その中の1人が、早川博二。のちに、1980年のコンクール課題曲≪アイヌの輪舞≫を作曲する男です。いや、それよりも、1970年の大ヒット曲≪老人と子供のポルカ≫(左卜全&ひまわりキティーズ)の作詞・作曲者といったほうがわかりやすいかな。彼は2004年に亡くなりましたが、トランペットは上手かったねえ。とてもかなわないと思った。
  で、2日目の試験に行ってみると「校長室へこい」との伝言がきた。
  行ってみると、当時の校長、乗杉嘉壽[のりすぎ・よしひさ]さんがいた。このひとは、もともと、いまでいう文部省のお役人だったんだけど、ものすごい型破りで、考え方もアメリカナイズされていた。役所時代は、あまりに次々と新機軸を実行するので、「油乗り過ぎ」とのあだ名まであった。そんな性格だったから、次第に煙たがられて役所を追い出され、地方の高校の校長を経て、東京音楽学校の校長になっていたんです。
  で、その乗杉校長が、「トランペットは、ほかの2人を採ることにした」という。
  ああ、やっぱりダメだったか、これで兵隊行きか……でも、まだ試験は全部終わっていないのに……と思っていると、
「ホルンだったら採るが、どうする」
  という。
  さっそく助手にホルンと楽譜を持ってこさせた。アレキサンダーでした。
「とにかく、吹いてみろ」
  といわれた。楽譜は、サン=サーンスの、何だったか、チェロの曲だったような記憶がある。で、これをその場で移調して吹いたんです。上海時代の耳コピー編曲で、もう移調は慣れっこだったからね。
  これが、まあまあ、イッパツで吹けたんですよ。というのも、上海時代、トランペット以外の楽器もけっこういじってたんでね。ホルンも、そこそこ吹けたんです。
  僕だって、兵隊に行かされるよりは、まだホルンを吹いてるほうがいいから、「ホルンでけっこうです」と返事した。で、その場で合格。
  こんな形で芸大に入れたのも、やはり、乗杉校長がユニークなひとだったからでしょうね。
  僕みたいなのは合格できたのは、それだけじゃなかったんだね。まず、オーケストラのホルンが足りなかったから。さらに、当時は戦争真っ盛りで、校舎も木造だったから、防火要員が大量に必要だった。いざ空襲というときに、火消しに立ち回る男手です。だから、とにかく頑丈そうな男の学生がもっと必要だったらしい。
  しかしまあ、入ってしまえばこっちのもの。本来の医学系の学校受験もどこへやら、僕は東京音楽学校(現・東京藝術大学)の器楽科に、ホルン専攻で入学することになったんです。1942年(昭和17年)のことでした。4月に米軍機B25の本土初空襲があり、6月にはミッドウェー海戦で日本軍は空母4隻と、全艦載機を失う大敗戦を喫し、以後、太平洋戦争は米軍優勢になっていく、そんな時期でした。

▲上海時代、このようにホルンもいじっていたのが幸いした。
▲芸大の正門をくぐる岩井青年。右手にもつのは当時の芸大の「制帽」。

■錚々たる同級生たち

 で、音大生活が始まったわけだけど、正規の授業にはほとんど出なかった。ただし、オケと吹奏楽(当時はまだ「ブラス・バンド」と呼ばれてましたけどね)だけは欠かさなかった。
アレキサンダーのホルンは、音だけはよく鳴ったねえ。だけど、普段は主に師範科の学生が使っていたせいか、へんなクセがついていて、音階がフルで出ないんだ。これには困った。1日8時間、20日間かけて吹きまくって、ようやくクセを消して、まともな音階が出るようにした。
 当時のブラス・バンドは、とにかくマーチばかりやってたね。スーザが多かった。当時、アメリカは敵だから、スーザの曲も「敵性音楽」だったはずなんだけど、特に禁止されているということはなかった。友好国であるドイツのマーチは、これはよくやりました。
 だけど、マーチにおけるホルンは、とにかく最初から最後まで「ンパ、ンパ」の後打ちリズムばかりなんだ。だからあまり面白くなかったなあ。
 オーケストラでは、シベリウスを知ったのがうれしかった。当時、フィンランドは中立国だったから、何の問題もなく演奏できたんだね。
 だけど、当時、ホルン用の練習室はひとつしかなくて、いつも先輩が使って埋まっているんで、練習場所を確保するのに苦労した。仕方ないんで、外で、校舎の壁に向かって吹いて練習していた。すると、上から防火用水の水を引っ掛けられたり、ピアノの先生が窓をあけて「うるさい!」と怒鳴ってきたり、ずいぶん困った思い出があります。
 当時、芸大には錚々たるひとたちがいましたよ。
 フルートの森正さん。のちに指揮者として大活躍するひとです。
 フルートには、のちに日本のフルート教育の第一人者となる、林リリ子さんもいた。あのころは、女の子と会話したりベタベタしてはダメ、との不文律があった。あるとき、学内で林さんとアンサンブルか何かで共演する必要が生じて、わざわざ学校に許可願いを出して、「女生徒との共演」を許可してもらった記憶があります。そんな時代だったんですよ。
あと、作曲家の團伊玖磨さんは、まったく同年の同級生です。
 のちに戦争から戻って復学してからは、芥川也寸志さんも同級になりました。
 テューバをやっているひとは、大石清さんという名前をご存知でしょう。彼も同年です。日本のテューバ教育の第一人者で、彼の教則本で勉強したひとも多いんじゃないかな。吹奏楽指導者としても有名で、1960年代には、国鉄大宮工場吹奏楽団を指揮して何度となくコンクール全国大会に出ているし、静岡の市民バンド「コンセール・リベルテ」の指導も長くつとめ、1962年には全国大会へと導いています。のちに僕が、このバンドとかかわることになるのも、彼の縁なんです。吹奏楽連盟の役員も、ずいぶんやってましたね。彼は、最後は芸大の教授をつとめ、退職後は小笠原の母島に移住し、数年前に亡くなりました。
 のちに藤原歌劇団でオペラ歌手として活躍する石津憲一も同年です。
 あとは、萩原哲晶。彼は≪スーダラ節≫や≪無責任一代男≫など、クレージー・キャッツの大ヒット曲の作曲で有名だけど、僕と同級生で、器楽科のクラリネット専攻なんです。卒業後、僕と同じように、ジャズ・ポップスの世界に入って、「キューバン・キャッツ」というジャズ・バンドを結成した。これが、のちの「ハナ肇とクレージー・キャッツ」に発展するわけです。ただし萩原氏本人は、早くから演奏の現場を退いて、作曲に専念するようになりましたけどね。クレージーのほとんどの曲は彼の作編曲。あと、TVアニメ『エイトマン』の主題歌も彼の作曲。ほかにTVではコメディ・ドラマが得意で、『おくさまは18歳』『コメットさん』『アイちゃんが行く』などの主題歌も彼。意外なところでは、1972年の東宝映画『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』の主題歌≪ゆけゆけゴジラ≫なんてのも彼の作曲。とにかく多彩な男だったけど、1984年に、ガンで58歳の若さで亡くなってしまった。
 このように、当時の芸大には、けっこうユニークなひとたちが、同年あたりにたくさんいたんですよ。


■橋本國彦先生

 授業にはまともに出なかった僕だけど、橋本國彦先生の授業だけは、欠かさず出ました。日本の戦前〜戦後の音楽界を語る際に欠かせない、大作曲家です。
 橋本さんは、もともと芸大でヴァイオリンと指揮を専攻したんだけど、卒業後は研究科に残って作曲も勉強した。昭和の初期にウィーンに留学して、フルトヴェングラーやワルターのステージに接し、アメリカへ渡ってシェーンベルクにも学んでいる。
 作曲家としては、時代が時代だっただけに、軍事音楽をたくさん書いた。特に1940年(昭和15年)に発表した≪交響曲第1番≫は、琉球音楽をモチーフにした傑作として知られています。ところが、この曲は、皇紀2600年を記念して作曲された「国威発揚音楽」だとみなされ、戦後は封印されてしまった。これが橋本さんの不幸だったともいえます。現に、戦後、橋本さんは、戦時中にこの種の音楽を書いていた責任をとって、芸大の教授をやめ、歌謡曲の作曲家になっちゃうんです。たとえば1946年(昭和21年)に大ヒットした、岡本敦郎のデビュー曲≪朝はどこから≫は、この橋本さんの作曲ですよ。
 1949年(昭和24年)、わずか44歳の若さで、ガンのため、亡くなってしまいましたが……。
橋本さんのすごいところは、クラシック系の曲や、軍事音楽を書く一方で、ポピュラー系の音楽も同等に身に付けていた点ですね。
 そもそも僕がジャズを知ったのは、橋本さんの授業なんです。本格的な楽典や旋律法、和声法などを教えてくれる一方、メジャー・セブンとかナインとか、通常のクラシックとはちがう音楽語法を、実際にピアノを弾きながらたくさん教えてくれた。すでに当時、シャンソンみたいな曲も書いていて、これにもずいぶん影響を受けました。もし橋本さんの授業を受けていなかったら、僕はそのままクラシックの世界に行っていたかもしれないですね。
 服装もすごくダンディで、スラリとしていて、ほかの先生とはどこか違っていた。
 教師としても優秀で、矢代秋雄、黛敏郎、芥川也寸志、團伊玖磨といった大作曲家を育てた。黛さんなどは、特に橋本さんのモダニズム面で、強い影響を受けているはずですよ。
そんな調子で、芸大の1年目を終え、2年生になった1943年(昭和18年)、戦況はいよいよ厳しくなってきた。2月にガダルカナル島撤退、4月に連合艦隊長官・山本五十六が戦死。5月にアッツ島玉砕。9月には「女子挺身隊」と称して、25歳未満の女子までが動員されることになった。「撃ちてしやまん」が標語となり、野球で英語の使用が禁止された。「ストライク」は「よし」、「アウト」は「引け」。
 そして10月に「学徒動員」。つまり、もう兵士が足りないので、学生までが強制的に戦地に送られることになった。
 僕も動員されることになり、音大生活は実質1年ちょっとで中断されることになりました。

 

【つづく】 

 

※第9回は9月30日(火)正午〜、掲載予定。
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   Syncopated March "Asuni-Mukatte"

2. ポップス・オーバーチュア「未来への展開」 【4:42】
   Pops Overture "Development toward the Future"

3. ポップス描写曲「メイン・ストリートで」 【5:01】 
   On Main Street

4. ポップス変奏曲「かぞえうた」 【5:09】 
   Pops Variation "Kazoeuta"

5. ポップ・コンサートマーチ「すてきな日々」 【4:24】 
   Pops March "Wonderful days"

6. Jump Up Kosei 21 【7:46】  

7. 詩曲「渚の詩」 【8:50】  

8. 響きかぎりなく 【7:02】 

9. あの水平線の彼方に 【11:38】

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(2008.09.13)>>


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