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吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!


第3回 ブラスバンド部創設

 

  第1次上海事変(1932年=昭和7年)のときは、僕はまだ香港にいたからどういう戦闘だったのか、まったく知りませんでした。しかし、今度の第2次上海事変(1937年=昭和12年)では、上海・日本商業学校の中学2年生でしたから、よく覚えています。


■上海市内にとどまっていた理由

  前回、少し述べましたが、確かに上海は、日本、アメリカ、イギリス、フランスなどの租界があって「国際都市」ではありましたが、必ずしもすべてが友好的に進んでいたわけではありませんでした。具体的に、何が引き金で日本と中国軍が戦闘状態になったのか、これは諸説あるみたいですが、同年7月の「盧溝橋事件」が遠因だったとよくいわれていますね。北京郊外の盧溝橋で、中国側(といわれていた)の何者かが日本軍に向けて発砲し、戦闘状態に陥った事件です。この事件は謎が多くて、中国側が挑発して発砲したのだとも、また、日本軍がわざと戦闘状態に持ち込むために仕掛けた陰謀だともいわれています。
  しかしとにかくこの事件がきっかけで、日本と中国は一気ににらみ合いの状態となり、のちの悲惨な日中戦争に突入するわけです。
  上海で戦闘状態に入ったのは8月13日でした。中国軍が国際租界を包囲し、攻撃を開始したのです。空襲もずいぶんありました。このとき、日本軍の陣地以外の民間居留地が誤爆され、民間人に死傷者が出たとことから、日本軍は一気に態度を硬化させ、反撃に出ます。日本の出雲艦隊も攻撃されました。
  このとき、上海にいた日本人は、かなり町を脱出していたのですが、我が家はなぜか残っていました。噂で「中国軍は10万、日本軍はたった3000」なんて聞かされていたので、不安でしたね。近くの小学校に避難していました。窓に畳を立てて塞いだりしましたが、そこへ弾が打ち込まれて、おっかなかった。爆撃があるたびに、爆風や爆音を感じていました。
  しかし、なぜ上海を逃げ出さないで、とどまっていたのか。実は、父・貞麿が、海軍武官府の、何かの仕事を請け負っていたみたいなんです。どうもよくわからないんですが「軍属」というのもちょっと違う、「伝令」とでもいうのかなあ。何かのメッセージみたいなものを、あっちこっちへと運ぶ、そんな仕事をやっていたような記憶があります。
  そもそも上海での武力衝突のきっかけは、日本海軍の大山中尉が銃撃戦に巻き込まれて死亡するという事件でした。この事件を上海の駐在武官が調査にあたっていたので、もしかしたら、それにまつわる何かの仕事を請け負っていた関係で、とどまっていのかもしれません。
  実は僕も、よくその使い走りをやらされたんです。自転車に乗って、伝言らしきものを、役所みたいなところへ、よく届けたもんですよ。そんなことにかかわっていたので、簡単に上海を抜けだすことはできなかったんでしょう。


■ブラスバンド部創設

  そんな父が、第2時上海事変も落ち着いたころ、つまり僕が中学2年生になった1939年(昭和14年)、上海商業学校に「吹奏楽部」を創設させたんです。もっとも当時は荒っぽく「ブラスバンド部」と呼ばれていました(実際、ほとんど金管楽器だったんで確かに「金管(ブラス)バンド」だったんですが)。創設部員数は30人弱。まさに「音楽プロデューサー」の面目躍如とでもいうか、父が発起人となり、あちこち飛び回って資金をかき集め、楽器は日本の「ニッカン」に話をつけて中古の提供を受けました。こうしてあっという間にブラスバンド部ができてしまったんです。

▲日本商業学校にブラスバンド部が創設されたことを報じる当時の新聞記事。
「第三艦隊・片岡軍楽隊長の指導のもと、猛特訓を続けている」とある
(昭和14年8月3日付、紙名不明)。
▲ブラスバンド部創設メンバーたちと。
2列目中央でトランペットを持つのが岩井。

 この中古楽器をくれた「ニッカン」という会社は、いまの若い人たちにはピンとこないかもしれませんね。ヤマハの前身のひとつです。日本の管楽器の歴史を語るときに欠かせない存在なんですよ。
  もともとは、明治時代から浅草にあった「江川楽器製作所」がルーツです。最初は楽器修理が専門だったんですが、やがてコルネットなどをつくり始め、特に軍用ラッパの製作で成功して「日本管楽器製作所」、略して「ニッカン」となった。
  このニッカンと業務提携したのが「日本楽器製造」=いまの「ヤマハ」です。ヤマハは本来、オルガン製造から始まった会社です。その後、ピアノやプロペラなどもつくるようになりますが、管楽器製造のノウハウは持っていなかった。そこでニッカンと業務提携することで、次第に総合楽器メーカーになっていくわけです。
  ニッカンがヤマハに吸収合併されて会社がなくなるのは1970年(昭和45年)のこと(ただしその後もしばらくヤマハ内に「NIKKAN」のブランド名は残していました。(「YAMAHA」でなく「NIKKAN」だったら、ヤマハ以外のお店でも売ることができましたから)。
  僕のようなラッパ吹きには、この「NIKKAN」というネームは忘れられない存在です。特にヤマハに吸収合併される直前に出していたトランペット「NIKKAN IMPERIALE」シリーズは、ニッカン最後の名器として、多くのミュージシャンに愛されたものです。その後「YAMAHA」名で製造されたトランペットも、初期は、この「NIKKAN IMPERIALE」がモデルになっています。
  余談ですがニッカンは吹奏楽団も持っていたんですよ。「日本管楽器吹奏楽団」といって、職場の部・東京代表として、1960年代にコンクール全国大会にも4回進出している。1969年の全国大会が最後ですが、それは翌70年にヤマハに吸収合併されて会社がなくなったからです。ちょうどその70年から職場の部・東京代表は「ヤマハ吹奏楽団東京」が出場し始めますが、これはニッカンの吹奏楽団がそのまま移行したんじゃないでしょうか。

▲当時の音楽雑誌には、必ずこのような「NIKKAN」の広告が出ていた。
住所は「東京市浅草区」。右端には「ブラスバンド喇叭隊あるところ必ず日管製品あり」とある。

 とにかくそんなニッカンの援助を受けて、学校にブラスバンド部ができた。
  父がつくったクラブですからここで僕は初めてトランペットを手にする。いわば僕の音楽人生は、昭和14年、中学2年時が始まりなんです(当時の中学は5年制)。


■父・貞麿は何者?

  というわけで、以後は、ずっと音楽の話になるんだけど、もう少し、父のことを述べさせてください。
 たぶん読者の方々の中には「いったい岩井直溥の父親は、何者なのだ」との疑問がわいているんじゃないでしょうか。何度もいうけど、これは息子の僕にもよく「分からない」。
  あらためてまとめてみれば、

[1] 正式な音楽教育は受けた形跡はないが、軍楽隊のある陸軍戸山学校に出入りしていた。
[2] ヴァイオリンを弾いた(ただし、それほどうまいとは僕には思えなかった)。
[3] 作曲をこなした(軍楽マーチ、要するに「吹奏楽曲」を書いた)。
[4] 宮家(皇族)や軍に出入りしていた。
[5] 文筆家だった。
[6] のちに妻(僕の母。ピアノ教師でもあった)と自宅で音楽教室を開いた(作曲家・音楽学者の柴田南雄が通っていた)。
[7] 音楽プロデューサーのようなこともやっていて、上海では、一家で、兄・貞雄(シロフォン)を中心とするコンサートを開催していたほか、アメリカ軍楽隊の演奏会なども開催していた。

 このうち、[3]の「作曲」については、前回もご紹介しましたが、ずいぶんいろいろ作曲していたらしいものの、楽譜が残っている曲はありません。当時の演奏会のプログラムや新聞記事を見ると、たとえば、行進曲≪祝砲の轟き≫とか、けっこうあるんですが……。
  その中でも、ほとんど唯一残っていて、レコーディングまでされているのが、1914年(大正3年)作曲の≪御大観兵式記念行進曲≫です(≪御大禮記念行進曲≫との通称題名もあります)。明らかに、1915年(大正4年)、京都での大正天皇即位の御大礼を記念して作られた曲ですね。昭和初期に、独逸ポリドール軍楽隊がヨーゼフ・スナガ指揮で録音して、「名行進曲集」といったSPレコードには必ず入っていたマーチです。その後、CDにもなっているみたいですね。
  この「ヨーゼフ・スナガ」という人は、一時「実在しない架空の名前」なんていわれたこともあったみたいですが、確かに詳しい経歴は伝わっていないものの「架空」ではないと思いますよ。ドイツの指揮者・作曲家・編曲者です。「スナガ」なんて名前だから、てっきり日系(須長?)だと思いがちですが、正式な綴りは「Joseph Snaga」、英語風に読むと「ジョセフ・スネィガ」みたいな感じですね。
 この曲は、この2000年11月に国立音楽大学ブラスオルケスターが演奏してくれて、テープを送ってもらいました。息子の僕がいうのも変だけど、なかなかいいマーチなんですよ。

▲昭和10年2月11日の紀元節(神武天皇の即位日。
現在の建国記念日)を祝して、自宅に上海在住の音楽家たちを招いて小パーティー
(最後列、左で乾杯しているのが父・貞麿。その横の少年が小学校6年生の岩井)

 そしてもうひとつ、[5]の「文筆家」ですが、実は、父はけっこう立派な本を出版しているんです。1937年(昭和2年)に出版された『新しき笑いと教訓』。タイトルどおり、いわゆる「笑い話・教訓集」。落語のようなコントと、処世術みたいな教訓を組み合わせた短編集です。はっきりいって、なかなか面白い内容です。時期的にいうと、僕が生まれてすぐのころの刊行ですね。
  「序」に、こうあります。

 「新しき笑いと教訓」と題し、一名これを「ワッハッハー」ともいう。
  この本を読んで、ワッハッハーと笑う、しかして、ただ笑うだけでは意義をなさぬ。釘を打つ所にビシッと打ってある、その打ってあるのがこの本の特色といえる。
  誰か偉い人に、題字や序文を書いてもらおうとかと思ったが、やめることにした。
  他人の題字や序文で、ようやく著者の存在を認められるような、不見識なることを要せぬと自覚したからである。
  ただ自力によって断然独歩するところに、この著書の真価があらねばならぬ。

著者
[全体を現代語表記に直し、一部、読みやすくあらためた/富樫]

 かなり強がりをいっていますが、どこか僕に似たところもあるように感じます。この序文で父がいっていることは、他人の助けを借りずに自分の力だけでやるぞ、とでもいった「決意表明」です。どうも父は「月給」をもらうような安定した身分の仕事に就いた形跡がない。いまでいう「フリーランス」、腕一本で(いや、音楽以外にもいろんなことをやっていたから「腕数本」とでもいうべきかな)食っていた。僕も後年、レコード会社の専属にはなりますが、基本的に腕一本で食うようになる。やはり「血」なんでしょうか。
  そしてこの本には、僕が生まれる以前、具体的にどんな音楽活動をやっていたのかが、チラホラと書かれているんです。

 

【つづく】 

 

※第4回は7月15日(火)正午〜、掲載予定。
(毎月15日・30日=土日祝日の場合は、直前の平日=に掲載予定)

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   Syncopated March "Asuni-Mukatte"

2. ポップス・オーバーチュア「未来への展開」 【4:42】
   Pops Overture "Development toward the Future"

3. ポップス描写曲「メイン・ストリートで」 【5:01】 
   On Main Street

4. ポップス変奏曲「かぞえうた」 【5:09】 
   Pops Variation "Kazoeuta"

5. ポップ・コンサートマーチ「すてきな日々」 【4:24】 
   Pops March "Wonderful days"

6. Jump Up Kosei 21 【7:46】  

7. 詩曲「渚の詩」 【8:50】  

8. 響きかぎりなく 【7:02】 

9. あの水平線の彼方に 【11:38】

【ボーナストラック】

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